更新2021年5月31日
- 猪瀬優理(2010)「中学生・高校生の月経観・射精観とその文化的背景」『現代社会学研究』23:1-18。
北海道内の中高生総計約300人を対象に、調査票調査と聴き取り調査を通じてその月経観と射精観を分析したもの(p.5)。
本論文のタイトルには月経と射精の両方が記載されている。だが、本論文が力点を置くのは射精である。射精に着目する理由として、月経は、いわゆる月経不浄観や女性の主体性などの多様な視角から論じられてきたのと比べると、射精は、言説レベルにおいても実証研究レベルにおいても、半ば等閑視されるような状況にあったことが挙げられている(pp.3-5)。
分析結果でも、射精に関するインタビュー内容について、具体的な語りも提示しつつフォーカスが当てられている(pp.10-12)。ここの語りから印象的に見えてくるのは、射精というものの姿がはっきり見えてこない現況である。たとえば、情報の伝達経路がわからず、話し相手もいないなどである(そもそも話し相手というものがいるのかどうかさえわからない)。
読み終えた感想であるが、まず、本論文の知見は私の実感としては非常に的を射ている。射精はいわゆる「エロ話」として仲間内で語られるものの、パブリックな場面になると途端に「アングラ」な存在になる。
射精に付帯するこうした「アングラ」性は、「生理用品の宣伝がテレビで放映されるなど月経をタブー視する見方は減少してきている一方で、 男性の射精については、変わらず公式的には不可視的である」(p.14)という指摘に端的に表れているように思われる。私の印象でも、生理用品のCMは頻繁に放映されるものの、例えば、コンドームのそれはさほど表面化しない(生理用品の史的展開は田中(2006、2019)が詳しい)。
さらに知りたいのは、なぜどのような経緯で射精が表面化しにくい存在になったのかという点である。もともと表面化しにくい存在だったのか、何らかの背景があって表面化しにくくなってきたのか。また、射精と月経以外のセクシュアリティ関連局面においても同じような状況が見られるのかも気にかかる。
参考文献
- 田中ひかる(2019)『生理用品の社会史』角川書店。
- ────(2006)『月経をアンネと呼んだ頃―生理用ナプキンはこうして生まれた』ユック舎。